2010年3月28日日曜日

蓮實における演奏-翻訳技法から、翻訳不可能性ゆえの可能性(デリダ)へ接続する1

以前某所で勢いだけで書いた文章。2は存在してない。文書日付を見ると2006.12とあるが、もう3年以上経ったのか。自分で読み直してていろいろ微妙なんだけども再掲載。

蓮實における演奏-翻訳技法から、翻訳不可能性ゆえの可能性(デリダ)へ接続する1


ある場所で、蓮實重彦と東浩紀の対比が少し語られた。このときの主旨に私見を混ぜて言い直すと、東は蓮實に比べて、記述に複層的な移動や往復が欠けていて、作品分析のレイヤーへの理解も俯瞰的に図式化されてしまい、レイヤー間の往復のような視線が無い。蓮實においては、細部への動体視力(あるいは反射神経)を記述において盛り込もうとするのだ、もしくは、細部への動体視力の運動のありようを記述しようとするのだ、と。
 私としては、単に蓮實を賞賛したり、ほとんど慣習化してしまっている「細部に打ちのめされよ!」と言う振る舞いを推奨するのではなく、むしろ蓮實をそのようにうながしたものを捉えたい。これは、映画批評ではしばしば「作品への観察力・視線の変化を喚起させるための仕掛け」といったふうに語られるし、それゆえ、レヴューなどではこうした背景を理解し、同様の機能をもとうと工夫すべし、と書き手に暗黙に要求されるわけだが、それだけじゃなくて、ちょっと違うものがあると思う。実際は、ああいう作品/言語の往復関係による作用が作品の経験を成立させていたんじゃないか。

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以下では、順を追って説明する。まず、蓮實はどこかの対談でこんな感じのことをいっている(出典失念)。
「すでにコードによって画面を回収する視線ではなく、原始人のように初めてスクリーンに出会ったかのような視線を向けることはできないか。たとえば、レヴィ=ストロースが書くところによると、アフリカのある部族にあるドキュメンタリー映画を見せたところ、作品を分節化して理解せず、そこに映っている鶏や人物の動作にまず凝視してしまうし、その「ありよう」に衝撃を受けるという。このような視線からはじめることはできないか」。
便宜的に、これを蓮實テーゼ1とする。

さて、この視線を忠実に導入した場合、どうなるか。コードによる分節化のカッコ外しをしつつ、細部への観察を続けていくと、ショットがショットとして認知上輪郭付けられていること、人物と背景の分節化の困難さ、さらには、そもそも直前のショット、もう少し前のショットとの連関をどこまで認知できるのか、また、そうした認知をもたらしている記憶は、どこまで高精度にできるものなのか、いや、そもそも記憶におけるショットは単に高精度であるべきではなく、読解による恣意性は不可避ではないのか…といった疑問や混乱に直面することになる。
つまり、分節化のカッコ外しは、文節における恣意性/非恣意性という区別をも絶えず揺さぶってしまうため、人工知能論で言うところの一種のフレーム問題が生じてしまうわけだ。これは、テーゼ1の徹底は底なしのカオスに近づいていくことを意味し、個別の「作品」という境界や、作品評価の指標を立てること、その指標に基づいて下される判断も成立しようがなくなってしまう。「語りようも無くなっちゃう」。
 したがってここで、蓮實の他のテーゼの作動が要請されてくる。フレーム問題に陥らないためのテーゼ1への歯止めが必要になってくるわけだ。(なおこれは、東近辺の言葉で言うと、認知限界→複雑性の縮減 という論旨と結構似ているが、それ以上の刺激を彼らはあまり与えてくれない。)
 蓮實自身は、これらの複数のコードやその異なるテーゼ間の作動ぶりを説明はしていない。その代わりに、蓮實の映画への語り方そのものが複数のテーゼの均衡状態として差し出されている。たとえば、「画面を注視するのならば、~~の表情or動作or事物or光が魅力を放っているのに気づくだろう」というふうに。つまり被写体の同一性や分節化のコードは暗黙に提示されている。また、ショットとショットの関係について語るときにもこうした暗黙のコードは見出すことができる。たとえば、投げる動作でショットa(投げる手)からショットb(投げられたものが壁にぶつかる)といったものや、人物aを映したショットaから人物bを映したショットbにつなげる、といった切り返しショットへの重視がある。
こうした、【A.画面上に同定可能な「細部」=可視的な対象性】と 【B.可視的な対象ではないが対象に対する切断(別のショットへの移行など)によって成立する「ショット間の関係」=可視的ではないが運動性】 の二つのレイヤーが見出され、AがBを、BがAをある程度牽制することによって、AもBも一つのレイヤーが単独で全面化することなく共存し、それぞれのレイヤーへの観察力の行使をある程度安定させているわけだ。
 また、蓮實はプロットに対してもレイヤーを作っていて、「すべての映画はメロドラマである」と言ったり、蓮實独特のヒッチコック観に基づくサスペンスの枠組みを重視する。そして、蓮實の言うメロドラマとサスペンスはほとんど重なるものだ。これは、【C.可視的な対象(A)でもそれらの間の関係網(B)でもないが、一つの作品として完結性をもたらす枠であり、一つの作品を輪郭付けるプロット】というレイヤーだと言える。
よって、大雑把に言うと、蓮實にはABCの3つのレイヤーがせめぎ合わされていて、それぞれがそれぞれを賦活するようにして語られている。Cの設定が、説話的持続性とその中断としての映像の過剰、というふうに読解が方向付けられているように、CにはAを見出すための経路が置かれている。というか、A→B B→A C→B C→A という方向が支配的なんだよね。(A⇔B)⇔C みたいな感じで、特にA・Bに重点が置かれている。蓮實がジャンル論(C)を重視するのはこのためだ。
 この大別して3つのレイヤー間のせめぎあいの管理方法を蓮實のテーゼ2としよう。こうして、テーゼ1のフレーム問題におちいる危険は、テーゼ2によって免れることができている。

 ところで、蓮實はこれらのレイヤーを明確に区別しながら語るというよりも、あのうねうねした文章のもとでレイヤーの切り替えが混ざりながら進行する文章を書く。私はこのあり方を、上記のような理解は不適当だから、なのではなく、そのような渾然一体となった記述でなくてはならなかったから、ととらえる。渾然一体に語ることによって、作品がばらばらになることなく、便宜的に「一つの作品を見る経験」が確保させることができていた。こうなると、どのように語るのか、どのような文体を選ぶのか、が一定の重要性を持っていることになる。ここで3つ目のテーゼ3が浮かび上がってくる。
 80年台初頭、蓮實は「映画の演奏」という言い方をしている(「映画を演奏する時代」、『映画狂人、語る』所収)。音楽における19世紀の作曲家から20世紀の演奏家への注目の変化と同様に、映画は1960年代から演奏家の時代になっている、その演奏家とは観客だと言い(p.108)、たとえばドナルド・リチーの小津論は演奏家的な価値が無いとして批判する(p.122)。
この線上にテーゼ3は位置づけることができる。テーゼ3は作品をどのように語るか、個々の映画をどのように上演-演奏するのか、ということだった。
 そもそも、映画には、文芸に書籍があり美術に画集等があるようには代理品が成立しにくいという条件が長らくあった。ビデオが70年代以後普及するのだが、この状況と平行するようにして蓮實はスクリーンでの出会いを強調していくし、また、DVDが普及した今となっても、劇場における判断や衝撃を軽視してはならない、DVDに漏れている作品も膨大なのだと言う。この主旨には、テーゼ3も実は関わっている。というのは、作品が観客の記憶の中にしかないがゆえに、その記憶の再組織である上演-演奏が重視される、という連関があるからだ。つまり、ある種のバイアスのかかった記録技術の面をもつ演奏技法として、映画の言葉による再上演が要求されているわけだ。そして、入り組んだ語り方、複数のレイヤーを往復する言葉をもって語りなおすことが、その語り手の映画の経験を成立させる。観客の言葉による演奏が、曖昧に霧散しかねない記憶のなかの作品の像を固定させ、経験を輪郭付けるわけだ。
 こうして、テーゼ1、2、3が見出される。テーゼ1とテーゼ2のせめぎ合いのもとで作品は分節化が可能になり、テーゼ3の記述への要請が文章への対応を可能にする。ある程度以上ぐねぐねとした書き方や細部への感触を追体験させる言葉によって、テーゼ1&2への感度は強化されている。こう見ると、テーゼ2の各レイヤー処理の技法が明文化されて整理されないのは偶然ではない。テーゼ3(言語への翻訳)との往復関係によって読者・観客が各人でその技法を獲得されることが重視されるために、明文化されないままに伝達されるというやり方が採られているからだ。

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蓮實や蓮實の系譜の映画批評で作品(の認知・記憶)/言語の往復関係がこのように作品経験と関わっているとして、この問題は単に蓮實や映画という個別的な問題にとどまらない。作品が経験される局面においてすでに、観客による演奏技法の行使が無自覚なかたちで浸透し、その演奏-翻訳が、作品内の異なるレイヤー間の処理やレイヤーへの重要度の配分に関わるのならば、この演奏-翻訳技法は作品判断・作品経験と表裏一体のものとなる。
 また、レイヤーにおける(A⇔B)⇔C というAとBに中心化された力関係を見出す手口は、蓮實的な規定を超えるレイヤーCの扱いを処理できないことをも意味するし、プロットへの視線の限界をも生み出している。
 ここで再び、A、B、Cをそれぞれ整理しなおしてみよう。
・ Aは画面上の可視的対象であり、対象の境界は画面との関わりから分節化される。
・ Bは画面上には映りこまない関係(動作を構成する要素への接続、別の対象への切り返しというかたちの関係付け)。
この二つは、シンタクスにおいても隣接関係にあり、相互に強化しあっている。
・ Cは、可視的対象と隣接関係に無く、A・Bに対して一種の異言語として存在し(蓮實の言葉では「説話性」)、プロットはつねに完結による一つの構造の定立が期待されるため、作品の途中であっても観客による予期(プロット構造の予想)をうながす。
蓮實がサスペンスでもってCを処理しようとするのは、ジャンル論を作品を見る前提に置いているからだ。ジャンルとしてプロットへの模索をある程度打ち切ることによって、CをA・Bへの賦活作用だけ取り出して弱めようとしている。しかしこの処理は、裏を返すと、ジャンル映画以外の模索には対応できないことも意味している。ストローブ&ユイレやゴダールへの蓮實の言及が、AやBにばかり集中していて、彼らにおけるA-B-Cの相互性の模索をどう考えるか、といった問いが消えているのはこのためだ。

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