2010年8月20日金曜日

ゴダールの構成 2

2010.8.5のログから。若干の加筆修正。話のきっかけとなった冒頭にcineeyeさんの発言を足す)

cineeye: 先ほどの愛と萌えの問題を考え直してみた(もういいよ!)。さっき言ったのとは逆に、「あなたの中にあなた以上のもの」=剰余価値を見ることこそが幻想で、「あなたの中にあなたしか見ない」ことが幻想への抵抗になるんじゃないか。このことは、イメージにイメージ以上のものを見るのではなく、イメージにイメージしか見ないことはできるのか、という問題とつながる。「あなたの中にあなたしか見ない」とは愛の未然に留まるということであり、それを便宜的に萌えと呼びたい。だから、ナギに処女性を見ている人は、ナギに萌えているのではなく、愛しているのだ。しかし、ファンタスムなしに萌えはあるのか?いや、ないだろう。しかし、萌えとファンタスムが別の原理で働いていると考えることはできる。これはモンタージュなしに映画のイメージがありうるか、ということと同じ。それはありえない。しかし、モンタージュとイメージを別の原理で考えることはできる。(URL: 1, 2, 3, 4, 5

 私は発想を転倒させていて、イメージという単位措定までに見落とされている過程があり、イメージとイメージ以外のものという境界画定をめぐる諸力の場を考えられないか、というところから始める感じ。というのは、私はモンタージュのような間から先に考える発想はとれないものかというふうに思っていて、帰着点としてのイメージ、みたいにイメージの位置を組み替えたかったというのがあったのね。ゴダールよりもストローブ&ユイレからだとそっちに行けると思ってた。ゴダールを見るときにおいては、間から、というときに、その両端である或るイメージAと或るイメージBとセットになっていて、間から、とは行きにくい。ゴダールの構成がショートレンジになるのはそのためではと。ゴダールのモンタージュ論は、衝突と接合、圧縮にあるので、間から構成を考えることができないというふうに私は思ってる。ストローブ&ユイレにはテキスト全体が制作において先にある以上、構成の問題に直面している。
 ただ、しばしばストローブ&ユイレについて言われるショットの持続性や時間はオミットしてもいいと思う。構成が先立っているのならば、時間経過感は抜きに同一性が保たれるのではないか、という疑問がある。ストローブ&ユイレの構成についてはゴダールの特性から説明した方がわかりやすいかもしれない。ゴダールには本を読むシーンって結構あるでしょう。台詞で愛について語るのも近い効果があるけど。そもそも「イメージ」に収まりにくいものをもってしてゴダールはイメージにしているという面がある。そうしたいわゆるイメージとされていないものと融合させながらイメージにするという、可視的要素を拾い上げる視点からは不純物として見られるようなものが、当初からゴダールにはあったんだけど、その展開においては散発的になってしまった。一方、ストローブ&ユイレにおいては、そうした意味でのイメージを作り上げるものとテキスト全体やテキストの抜粋選択・編制という課題がまずあった。そのため、構成とイメージが乖離せずに取り組まれている。私はストローブ&ユイレを見るのがゴダールを見るのに比べて遅れたんだけど、ゴダールを見ながら構想していたものがあって、その視点ではゴダールは不徹底だろうと考えていたんだけど、ストローブ&ユイレを見てそのときの構想とかなり重なるものがあると感じた。つまり、ゴダールはストローブ&ユイレと対立にして見るべきではないし(浅田の対立発想を有害だとみなしていた)、ゴダールにはできていないある面の徹底だと見たほうがわかりやすい面がある。もちろん、ストローブ&ユイレにも何かしら疑問点はあるんだけども。ストローブ&ユイレには、(ゴダールにもあった)テキスト「の朗読」による再演としてのイメージ、という軸があった。再演、再現前をどう編制し、論じるか、という焦点がありえるんだと思う。で、そのとき構成を軸に見たほうが、ショット個々の特徴にのみ拘泥せずに済むんじゃないかと。

 黒沢清が何かのゴダール関係のパンフで「どうもストローブ&ユイレは形式的に見えて苦手で…」と言ってるんだけど、ゴダール的なショットのあり方で感覚が形成されるときに現れる典型的な反応だと思った。そういう立場に基づいてゴダールとストローブ&ユイレが対置されやすいんだと思う。私はむしろ、ゴダールの試みとその限界から考えたからこそ、ストローブ&ユイレのよさがわかるって感じなので、構成をいわゆる形式的/具体的という対立に回収せずに考えないことが、ストローブ&ユイレにおいては重要だと思ってる。浅田と蓮実は一見対立的に振舞っていることもあったけれど、一般的にそう思われている以上に彼らの足場となっている感覚と構成のあり方はよく似ていて、どちらも「イメージの現れ」に重点を置き、共犯的な面がある。現状、ストローブ&ユイレについて言われる「厳密さ」というのは、実のところ具体的なもの/形式的なものという対立に根ざした、蔑称すれすれの「敬して遠ざける」形容詞だと思っている。形容詞張ってそのまま議論が進んでないのがまさにそれを示している。

 たとえば藤井仁子の講演では、素人演技の演奏の下手さやパンク的雑駁さをもって「正しさ」ではない、とされるが、ゴダール=パンク=瑞々しいイメージ、の伝統に引き寄せるロジックでもあるので、問題だと思う。藤井の"アルチュセールまで持ち出して、ストローブ&ユイレが、あたかも撮ることに先立ってドグマ的に「正しいイマージュ」というものを信奉しているかのようにいうのは、端的に「正しくない」"は、別の意味でまた浅田の含意を見落としてもいる。あの対立を持ち出した浅田の念頭にあったのは、旧左翼:新左翼=ストローブ&ユイレ:ゴダールという類比であって、もちろんその乱暴さと弁別によってそれぞれが失うものがあるんだけど(ゴダールは80年代後半以後、歴史救済に転じるとはいえ、「革命の大義」側、つまり旧左翼側の理念に近いし…)、その含意を見ず、乱暴にまとめるなら「アルチュセールもちだずな雑すぎ」と返してるような構図になってる。浅田のあの手口には同時に、ストローブ&ユイレを旧左翼に還元、ゴダールを新左翼に還元(しつつ新左翼側に共感する立場表明)、という左派文脈をたぶん混ぜている。というわけで、この対立軸を本当にまともに批判的に継承するとき、実は「左翼と映画」という(ゴダールやストローブ&ユイレのみならず)広範に広がる問題に手をつけなければならないという超めんどくさい事態が出てくると思う。
 藤井のロジックはいろいろ単純すぎてて、ゴダールがロマン主義に傾倒する一方、ストローブ&ユイレにはそれはない、と(よくあるロマン主義悪玉論で)やってるわけだけど、ヘルダーリンやらモーリス・バレスやら(バレス派の)ガスケのセザンヌ本を使うなどの側面を考えるとき、そんな単純な話なわけがない。私は藤井は楽天的なまでに、蓮実派-蓮実派におけるゴダール受容派 の線の人だと思っているので、まさにこういう傾向に飲まれないことが重要。私は「蓮実パラダイム」とされているものを語法や修辞の傾向ではなく、感覚と思考、経験と理論の噛み合わせ方で定義変更したほうがいいと思っている。そうすると、浅田(のかなりの側面)を含め実に多くの「蓮実派」がいて、パラダイムに飲まれているのだとみなせる。

0 件のコメント:

コメントを投稿