2015年7月4日土曜日

レジュメのレジュメ 「モダニズムの再検討」(『モダニズムのハードコア』太田出版、1995)

最初のレジュメ(モダニズムのハードコアの座談会)の方のver.2

論点に沿ってさらに再構成、「モダニズムの再検討」(『モダニズムのハードコア』太田出版、1995
《基底面/実在、エクスキューズ、形態》
 想像=知覚される複数の基底面(面)のあいだの矛盾(その効果を「透明性」と呼ぶ)
 →実在を、ガラスの実在(リテラルな透明性)というかたちにではなく、知覚される複数の基底面(面)の矛盾というかたちで事後的に要請されたもの、と考えること。
  =客体的にある事物/複数の基底面が知覚され、その間に矛盾が生じる。この経験を実在と考える。
  →グリンバーグの言うような[図=交換可能なもの/地=基底面=交換不可能なもの]という対立ではなく
(その場合だと、後者が単一性を保証するもの、建築においては均質空間のようなものと考えられてしまう)、
   複数の・交換可能な地・基底面をどう考えるか、という問いになる。
   →ex. ●アイゼンマン
:基底面を複数煮するために、都市には複数の軸線があるというかたちで与件を捏造し、その矛盾において作品を成立させようとしている。時代の層を矛盾するかたちで提示させている。ただし、時代の層を(捏造するにせよ)提示するという手法は、「場」を作品が成立するための前提としている。
●コールハース
       :同様に与件を捏造する。両立しない諸部分を矛盾させたままに共存させ、社会的機能から決定されるなプログラムからグリッドで並列させる。だが、このときの諸部分/グリッドでは、近代的な実在する均質空間(ex.オスマンの都市計画)と同じことになるのではないか。
また、このときの表象する主体の分割は、[①美しいもの・人/②それを見出す人]になっており、同様に建築家自身の[①形態をプログラムとは別に操作する/しかし、プログラムで構成したとエクスキューズをつける]でもある。このズレゆえに有効なレトリックとして受容されてしまう。これは、グリンバーグ~フリードが、彫刻・絵画・家具というジャンルが複数のコンテクストとして重なり合っている過程(なりそこない)こそを芸術とした、世俗的総合(①作品の属性は観客に依存しており、②ジャンルという複数のコンテクストが重なっている過程、これを芸術とする)と同じことになる。
とはいえ、主体の表象というエクスキューズを無視して形態から、コールハースの建築を見ることも可能で、その場合にはアイゼンマンやジェームズ・スターリング、イームズと比べることもできる。
      ……この、エクスキューズにかかわらず見ることができる「形態」とは、「場」や、そこに蓄積した歴史性、主体の表象、基底面と無関係なものなのか? なお、「いかにして舞台から消え去るか」「技法を明示的に発言することなく、形態を多元決定する主体を演ずること」とは、制作者が代表をしないために採るべき次善策として主張されている。
      ●ジャッド
       :他方、ジャッドは、彫刻・絵画・家具などにまたがって制作したが、それぞれのジャンルの区別を認めないようなものにしていた。基底面さえも排除して、予め単一性(図と地が対立しない一つのunity)へと作品を物象化している。そのため、実在はなく、感覚与件としてのオブジェがあるだけ。
      ……この、基底面を複数であろうと単数であろうと示さずに、単一性へと物象化された作品の感覚与件と「形態」とはどういう関係か。どう見ようとフェノメナルな矛盾や変化のない、リテラルな単一体?
      ●カロ
       :断片的な諸部分の接合だけ。接合=ずれを解釈すると、複数のコンテクストが、複数の基底面が要請される。つまり、諸部分を選択することで複数の[部分/全体]という与件が成立しており、これはアイゼンマンの手法と同じ。
                           
    →・[与件の選択/複数の基底面が要請される]→何を与件に選択するか、という問いになる。
・形態を決定するエクスキューズに回収させないように、二つの主体/観察者で「形態」から見ること。見させるため採られるべき作家のふるまい
・コンテクストの重なり合いを利用せず、予め単一性へと物象化して提示
   ……交換可能な地として考えられた「基底面」と、「形態」とをそれぞれ位置づけするパースペクティブは?

《基本アルゴリズムの検討と「複数の言語ゲーム」のあいだ》
浅田の見解。対位法の基本アルゴリズムはx-x1/x-1/x(原型、逆行型、倒置型、逆倒置型)の単純なクラインの四元群となっている。この単純さを残しながら単純に見えないために、表面において複雑なセリーを施して構造を形成していた。だが、現在では基本アルゴリズム自体を複雑に設計できる。模索する余地がある。たとえば、対位法にとらわれることなく、偶然のコインシデンスさえもジェネレートできるようにアルゴリズム(組織化のプログラム)を複雑化させること。
 岡崎の案。〈先験的な前提を回避〉 コールハースのような社会的機能から決定させるものだけではなく、フラーのように外部環境をまったく無視したものを考えることもできる。いわば、ここでは先験的な空間を前提にしないで住宅を自立させている。また、経験の主体を自称することもないので名前を持たない。
 〈複数の言語ゲーム〉 ヴェネツィア派、とりわけティツィアーノの制作手法では、前景/光景、人物/背景、明暗、奥行、色相といった諸秩序が複数の言語ゲームとなって、アーティキュレーション(分節化=接合)の様子が分かりにくいままに分散・溶融しあっている。これが「見尽くせない・記憶しきれない」魅力となる。複数のシェーマが階層化されずに重ね合わされ、シンタグムがあることがわかり、「読むに値する」ことを知らせる。全体を統合する空間軸や時間軸を成立させることなく、確率的なかたちで相互に矛盾する複数の全体性を喚起し、ジェネレートさせる。そのために、パラディグムの広さや矛盾した重ね合わせをおこなう。こうして喚起された複数の全体性は、異なる事物が確率分布となって配置される、「濃度」としての構造なのだ。決定は、構造的布置がそれ自体を決定する。構造のなかにヴァリアントとして形態があるのではなく、形態から構造を見ること。
 だが、基本アルゴリズムの模索は岡崎の方法だけではないはずだ。「複数の言語ゲーム」とそれが「読むに値する」のを知らせること。確率分布と構造的決定としての美的判断。これ以外の可能性を検討するためにも、これらの厳正な位置づけが必要とされる。


レジュメ 岡崎乾二郎・浅田彰・磯崎新「日本語版特別座談会:〈Anyway〉を終えて」

『Anyway』所収座談会はモダニズムのハードコアとほぼ同時期に行われ、論点も重なるものだった。そのため、当時松岡新一郎は二冊両方をとりあげる書評を書いていた(「モダニズムのハード・コアといかに付き合うか」 , 『InterCommunication』no.13, Summer 1995, NTT出版, pp.106-108)。こちらは『Anyway』所収座談会の方の縮約形。

レジュメ
岡崎乾二郎・浅田彰・磯崎新「日本語版特別座談会:〈Anyway〉を終えて」
(浅田彰・磯崎新監修『Anyway:方法の諸問題』NTT出版、1995pp.264-285
 


美敵領域、用と美のレトリック、美を見出す主体の立場
美的領域、道徳的領域、科学的領域は、相互に自立・連係しあっているわけではなく、美敵領域は道徳や科学に依存して正当性を求めている。そのため、ワトキン『モラリティと建築』が言うように、神学、社会的プログラム、工学的プログラムへと建築理論は根拠を見出そうとする。この三つは、磯崎にとっては「ユートピア、国家、テクノロジー」とも言い換えられる。
他方、美的領域の自立が主張されたときには形態から建築が言及されることになる。与件によって輪郭を限定された形態が自立しうるのか、普遍的を獲得できるのか、と。そこで、美と形態が用との関係をもつとき、民芸運動においての美と用のレトリックは見直される必要がある。
 コールハースの問題。与えられた大文字の社会のプログラムを代弁すると言うけれども、代表としてふるまっている。各々の正当性をもった小文字の建築を破壊するのではなく、守ってやろう、守る主体(大文字の社会)を代表しよう、と。ユニヴァーサル・スペースという名の均質空間のなかにパティキュラーなものを、少々コンフリクトを起こそうが全体的に包み込む主体を代表しようとする。これはある意味で非常に官僚的な立場である。
 正当性を保証しようと、小さな個人的な偏差の原理として官僚はこうした言い方をする。このとき用いられるのが民芸運動での論理である。柳宗悦は二枚舌で使い分ける、「この芸術作品は、芸術でありながら役に立つからいい」「この道具は役に立つけれど美しいからいい」。美と用は無条件で結びつかないからこそ、有効なレトリックを構成する。この論理では、この美と用の分割にしたがって主体も二つに分割される。①美しいものを作ったという自覚をもたずにオートマティックに制作する人間と、②その美しい使い方をする人間に。このレトリックでは、宮沢賢治の「デクノボウ」と同様に、あくまで「無名の陶工」が「無心に」「無目的に」つくるとされる。ハイデガー的な目的論で言うと、手段へと転化させないために、「生きるために生きている」「これはこれ自体で美しい」といった自己目的的に完結することが求められる。
 コールハースは同様に、美に顔を与えるのではなく、美を見出し保護する、使用する主体を自称する。ヒューマン・スケールを超えたビッグなメガストラクチャーの中では、小さなヒューマンな美をなんでも差別なく収納できる、と。ブルータリズムが生の素材を美として発見することや安藤忠雄の素材操作もまた、偏在する美を活かすという意味で同じ論理であり、ここでは用と美が共存するという欺瞞がはたらいている。
 鶴見俊輔『限界芸術論』。柳宗悦や宮沢賢治は芸術家になりたかったのだが、表現したい、代表したいという自分の欲望に対して倫理的に悩む。そこで、専門家が作って専門家が享受する純粋芸術でもなく、専門家が作って大衆が享受する大衆芸術でもなく、自己完結型に自分が作って自分で享受する限界芸術(周縁芸術)という立場に向かう。周縁的なところで大衆が作って大衆が享受する。芸術は、目的に従属する普通の記号ではなく、それ自体を目的とする楽しい記号である。食べるための二次的な労働ではなく、それ自体が目的である一次的な労働。こうした疎外論的なモデルから倫理性な正当性を与える。こうなると、作ること自体が目的になっているのでPCだから批判できなくなる。柳宗悦の主張とは、作り手が専門家として自覚しないで作ったにもかかわらず、質だけが分離して高くなり専門的な領域にまで達しているものを見出すのが自分の務めである、不当に抑圧されているものを見出すのが私の立場である、というものだった。芸術家や建築家には、美を受動的な対象とすることと美を提示することの二つの必要から、このように受動性を他者にゆだねたふりをして他者を引っ張ってきて囲い込むレトリックがある。
コールハースの言うプログラミングもそれに近いのではないか。一人一人が何をしてもいい、ただしそれが言いか悪いかは判断するな、それを美を目的として作ってはならない、ただ作ることを楽しみなさい、それを選ぶのは美術館や博物館、民芸運動の民芸館である、と官僚的にふるまっている。このようにメタ・レヴェルに主体を置き、オブジェクト・レヴェルの小さな主体はみんな好きにやって市場で競争せよというのは、官僚主義であり資本主義の論理なのだ。

デミウルゴス的な名人、多元的決定にさらされる技法・形態操作へ
 だが、これらは形態を括弧に入れるための弁解、エクスキューズにすぎない。弁解の理屈を言うのではなく、形態を多元決定する主体を演じてしまえばどうか。本物の神でもなく、大文字のアーティストでもなく、しかし与えられた与件から無私で奉仕しているわけではない、そのつど根拠を捏造しながらモノにこだわって作り続ける…デミウルゴスとしてふるまえばよい。依然としてプログラミングから一義的に形態を決定することはできない以上、なぜこの形態かという問題はつきまとう。建築家の主体を完全に機械的なメディウムに置き換えることはできない。むしろその主張は、機会を総括するメタ・レヴェルの私へと主体を持ち上げて温存するレトリックとして機能してしまう。いまや、代表の論理に対する抵抗の拠点にできるものは、現場の一個一個の判断にはシンプルには一貫していない多元的決定があるという部分だけになってしまった。
 エクスキューズから無関係にコールハースの形態を見るなら、アイゼンマンに比べることも、スターリングやイームズと比べることもできる。コースハースの語彙はしばしば共通しているし、彼の言う理屈もスターリングとイームズの折衷とみなすこともできる。その点を見落として建築家がだまされてしまうのは、1930年代のように非常に危険な状況である。日本の戦争期には、民芸運動や宮沢賢治こそが共感を誘うもっとも強力なナショナリズムとして機能していた。この状況を回避するためにも、多元的決定として形態の問題が前景化されるべきだ。
 コールハースがエクスキューズとして言うような主体の分割にしたがうならば、①オブジェクト・レヴェルにおける無自覚な他者としての美(代入可能な項、便利屋)、②メタ・レヴェルにおいてそれを見出す主体(代入可能な枠を作るキュレーター)、という現在の美術作品展示の問題規制に陥る。そのうち、アーティストがキュレーターとなってオルタナティヴ・スペースを自分で確保して作品を発表するようになるだろう。だがこれはストレスが多く、消耗していくばかり。やはりもう一度名人となって(しかも誰に認定されずとも名人を自称しながら)、もっともラディカルに主体の分裂を引き受けるのがよいのではないか。本当はわかっていても、代表の論理を口にすることなく、技法を単純化することなく、わからないと言うようにして。

テクノロジー、複数のシステムからなる語彙と用法のインタラクティヴィティ、変動する与件のもとで
 20世紀初頭に自動車や飛行機など人間を外部空間へと拡張させるマシン・エイジのテクノロジーが出現し、60年代末にはロケットで月にいくことで頂点に達する。戦前のバウハウスの作業は、そうしたテクノロジーをいかに建築言語へ翻訳するかというなかで、社会的な革命や改革のヴィジョンへとつながって構想された。それが戦後アメリカでイデオロギー抜きでスタイライズされ、50-60年代に一般化されたものがアメリカ型のモダニズム。だが、70年代以降は、人間の内部に折れ込んでくるような質の異なるテクノロジー(ex. 脳内の情報処理のシミュレーション、細胞内の情報処理を研究などの情報科学や生命科学)が出てきて、それが電子情報網やバイオ・エンジニアリングとなって生活の現実を再編しつつある。このテクノロジーはかつてのテクノロジーと比べて、可視性が低く、建築言語やデザイン言語に取り込む試みはなされてはいるが容易には進行していないようだ。
建築であれ何であれ、すべてを覆い尽くそうとしても、すべての建築家がその同じ欲望をもっているゆえに、それを覆うような屋根は架けられない。小文字の形態や戦略的にミニマルな語彙にまで減退された形態、分散されてしまった技術を統合しようという誇大妄想がバウハウスにしてもあったわけだが、それは不可能である。それに代えて、具体的な輪郭、フォルムをいかに引き受けるか、ということが課題となる。
フォーマリズムは閉じた、限定された場所でこそ成立する手法だった。限定された語彙、つまり閉じた集合を開く手法にはブリコラージュもある。だがこれには的確な説明原理がまだない。説明するにはプログラムに基づいた言い方になるが、現在このプログラムを構成している要素は、クライアントの要請とか容積比など不適当なままになっている。ゲーリーの名人芸には説明原理があるけれども、それを言えないのはあくまで説明原理の方に問題があるのだ。説明原理がうまく成立しないため、社会的に開き直れないことに、1930年代に表現主義が成立するのに失敗した理由があった。
 ブリコラージュでも、語彙は閉じた集合であっても話され方は開いている。つまり、語彙が形成する集合とそれを使用する用法の集合の二つの形式が必要であり、この二つの形式からなる複合的判断がある。だが、従来のインタラクティヴ・システムと呼ばれているものは、単に選択肢の集合を広げてユーザーが選択できるようにしたというだけで、作っている方はその全体を見渡すことができていてインタラクティヴでもなんでもない。そうではなく、作っているときに組み合わせる複数の言語やシステムによって、使うときに予期しないことが起きてしまうというのがインタラクティヴである。言語ゲームにおける「暗闇への飛躍」。これは、カオス理論におけるカオスと同様に、そのつど一応部分的な理屈や方法の集合が成立するということであり、ブリコラージュとはそうしたもの。
現状で言われているプログラムとは、デュシャンの言う与件(後から「与えられたからやりました」と説明するための与件を周到に捏造すること)に近い。現段階のプログラミング論は、どこか大文字の社会に責任を預けたところから、社会でなされている操作に対してディスプログラミングを提示することにとどまっている。必ずしも正当性をもってはいないギヴンのプログラムに対して、カウンター・プロポーザルをおこない、批判的に再編制することが現行のプログラミング論であり、全体の組み建て直しにまでは及んでいないのだ。
そうした不徹底を排し、真のディスプログラミング論へ向かわなければならない。社会的なインフラストラクチャーのネットワークに頼ることなく、物質=エネルギーよりもソフトウェアに重点を置いたシステムを構想する必要がある。サラエヴォはその実験場ともみなせるだろう。フラーのダイマキシオン・ドームは、形態をリテラルにとらえるのではなく、その発想から見ること。与件がないと言ってしまうと、ない空間が考えられてしまうので、与件は安定していないと言った方がよい。私たちが主体と同一化しているヴィジブルな形態は、与えられた条件によって受動的に発生してきたものであって、あえてニーチェ的、クールベ的にその与件を抵抗のあるものへとすり替え、主体を変更可能なものにする。サラエヴォを待つのではなく、サラエヴォ的状況に自分をもっていくという自己鍛錬。ブリコラージュを形式的に記述するなら、そうした方法があるのではないか。
ブリコラージュにまだ可能性があるとしたら、変化する与件のなかで能力を問うということにある。実際、戦争などで与件が変化したときにどう生き延びたかという点が、テラーニやミース、ジョンソン、丹下らの評価では焦点となる。今まで自明としていた前提が露呈し変換されたとき、今までの方法論が自立して生き延びられるかということが問われるのなら、それを先取りし、その方法論で主体を分裂させ、自分をいたぶるような与件のもとで自分を組み替えていくしかない。能力の訓練方法にはスポーツや舞台演技と同様にメソッドがあるし、いくつかのセオリーも分散的にあるだろう。
 

レジュメ  岡崎乾二郎・浅田彰・松浦寿夫・田中純・丸山洋志「セミナー モダニズムの再検討」

11年前に書いたレジュメ(にしては明晰ではないように思うが面倒なので手直ししない)を持ってたので、Kindle化に合わせて公開。多くの人は座談会を読んでも話のつながりが把握できなくなってしまうのではないかと思って作ったような記憶がある。レジュメというよりは「縮約形」か。

レジュメ 
岡崎乾二郎・浅田彰・松浦寿夫・田中純・丸山洋志「セミナー モダニズムの再検討」
(『批評空間臨時増刊号 モダニズムのハード・コア:現代美術批評の地平』太田出版、1995
 


Session I: Presentation 1994.4.29 (pp.304-317)
グリンバーグ、ミニマリズム、フリード=ロウ、透明性の遅延や作品を成立させる主体の事後的生成における差延
 グリンバーグの基本的枠組。単一性unity/視覚性opticality/実在性realityが目指される。図と地の対立、あるいは対立させる形態が超克の対象とされ、観客・公衆の投影によって現れる形態を排除したときにはじめて絵画は純粋なオプティカリティに到達し、芸術として自律しうるとした。グリンバーグによると、三つの概念は実在の作品のなかで一致するものとして、つまり三位一体を構成するものとして考えられた。
 ミニマリズムの問題設定は二つ。①図と地が対立したままに図と図の組み合わせから成立する作品を批判するグリンバーグを受けて、作品全体を図/地を対立させない単体として現すこと。②視覚的なフィールドは見る距離から制約され、遠くからではただの四角いフレームをもつ形態となってしまう事態に対して、近距離に可能だった内部を放棄することで外形の四角い形態こそが作品である、とした。単に三次元の物体があるのなら距離による制約はなくなり、そもそも彫刻/絵画というジャンル画定に基づいていた問題はなくなる。壁に掛ければ絵画になってしまう、という絵画を成立させる制度的なシステムをリテラルに利用し、遠距離に物体を置いて絵画/彫刻を止揚した。
ここでフリードが登場する。ミニマリズムは実在を実在として成立させている公衆に依存している、実在性は、ア・プリオリには与えられない、と言う。さらに、公衆として組織された観客に対して、作品が作品として成立するのと同時に成立する主体が事後的に生成するのだ。カロの途中で中座したような形態、「なりそこね」た作品は「読むに値する」という。だが、フリードの言う主体の生成では、現象学的な意識の瞬間性に限定されており、時間的な持続が排除されている(だが、そう評価するカロの作品も無時間・無媒介に成立するのではなく、あくまでその一瞬は実は複数の瞬間の重ね合わせであり、作品自体も複数の基底面を想定しないと読解できない)。フリードは瞬間性と言うが、シンタクスを、したがって言語的な読解の問題を導入しているので、本来なら差異さらに差延に関する検討が必要である。この問題はクラウスに持ち越され、それと同時に精神分析へと回収されるようになってゆく。
 ロウの透明性に関するフェノミナル/リテラル。フェノメナルな透明性は、本来共存しえないもの同時に同じ場所を占めているように見えることから事後的に要請される効果。リテラルな透明性は、あらかじめ透明な物質が実在するという立場。この立場から、ガラスをその上に何でも重ね合わせることができる実在的な基底面とみなした。カラー・フィールド・ペインティングもまた、重ね合わせやコラージュを可能にする、実体化された絵画の空白のフィールドだった。一方あくまでフェノメナルな効果にこだわるロウは、ル・コルビュジエの作品を透明性が遅延し続けていって最終的にどこにも提示されない状態をマニエリスティックな視線の撹乱だと評価した。このように透明性を遅延されるものとして考えるとき、現象学的還元によるリテラルなものへの批判とフェノメナルな意識経験への志向が陥る現前の形而上学から逃れて、複数の基底面や想像=知覚された複数の地の絶え間ない交替と変化について考えることができるのではないか。
ロウの最も重要な論点は、実在を複数の想像された面の矛盾として事後的に要請されるものだとしているように見えるところにある。同様に、グリンバーグの言う図/地は通俗的には交換可能なもの/基底面・交換不可能と理解されているが(すると単一性を保証するもの、たとえば均質空間があるかのようになる)、そうではない。知覚は図と地に分離できず、地こそが交換可能なもので、実在してはいない。複数の・交換可能な基底面や地を考える必要がある。
ロウ、アイゼンマン、コールハース/フリード、ジャッド、カロ、セラ:複数の基底面と実在性の扱い
 ロウの言う「コラージュ」は、それぞれ全然違う基底面の重なり合いとして理解できるところがある。60年代以降、建築や美術でもサイトが単一の場所として前提できないというかたちで問題になり、場所と場所の対立が考えられはじめる。ヴェンチューリもそうだ。アイゼンマンは、一見形態を重ね合わせているように見えても、実際はその作業の前提として与件を捏造し、実際の知覚に複雑さを与えようとしているのではないか。その与件とは、一つの都市のなかに複数の軸線があり、それが絶対一致しないというもの。ロウを文字通り逆様に導入すると、こうなるのではないか。美術でも同様に、本来あるかはわからないが人工的にいくつかの時代の層をつくって、それらの間の矛盾を利用している。
 ただし、単一性という近代主義を乗り越えようとしてフェノメナルな透明性を捏造するために、複数の面を実在するかのようにしてしまう。その結果、実在する透明性、近代的な実在する均質空間へと回帰してしまうのではないか。アイゼンマンに比べると、あたかも地の交換可能性をとらえていることで優位にあったように見えたコールハースは、実際は結果的に実在する透明性に戻ってしまっているのではないか。最後にグリッドをもってきて、グリッドがあらゆるものの両立しない諸部分をディスジャンクティヴなままに並列させるとする。ならば、これはグリッド状の均質空間は近代的な実在するリテラルな透明性となっているようだ。個々のシェイプが問題ではなく、社会的機能から決定されるプログラムこそが問題なら、オスマンのパリ改造計画にみられる近代主義と同じだ。
ロウのフェノメナル/リテラルの対立。リテラルなものをリテラルに示すことに徹底したのがジャッド。絵画と彫刻の区別もない、いや美術と建築の区別もない、ならばオブジェクトがあるだけなのか。いや、ジャッドを可能性の中心として考えるなら、彼は基底面と呼ばれるものの呈示さえも回避したかったのではないか。基底面も何もない、ただ感覚与件として目の前に与えられたオブジェがある。オブジェがないと言われてもかまわない。はじめから予定調和的な単一性へと作品を物象化している。作品に対するあらゆる属性付与(きれい、バランスがとれている)は観客に依存しているのだから、勝手に見ればよい、と。これはグリンバーグ以上に徹底したモダニズムの(負の、かもしれないが)極限なのだ。
また、ジャッドはフリードからはジャンルの枠を超えてしまい、それによってシアトリカルな持続を導入していると批判される。だが、世俗に直面せざるをえない家具や建築の制作ではぎりぎりまで追い詰められており、それはあらまじめ世俗を前提にしているようなグリンバーグやフリードとはちがって無趣味なままなのだ。さらに、ジャッドがプロセスを前衛の条件として想定しないことには可能性が見出すことができる。
ステラの場合。最初のブラック・ストライプ・シリーズではグリンバーグ的な還元主義を突き詰めてほとんどジャッド的な総合を達成しようとしていた。だがその後は、フリードの言う複雑なものの生成によって作品を現象化させようと試みるが、その操作の設定がリテラルなものにとどまっていたため、ゴーキーの絵画やチェンバレンの彫刻を不器用にしたものになってしまった。フリードがモデルとしていた抽象表現主義とは、相互に矛盾するコンテクストが圧縮されて重ね合わされ、ずれだけが呈示されるという理念があった。それは、チェンバレンやゴーキーと同じ問題である。
 カロの場合。一方、フリードが避けられない世俗的与件を還元するなかで成立したものとして評価するカロの作品では、あからさまに断片的なものが呈示されている。最初見るときにはずれしか現れないが、そのずれを解釈しようとすると複数の基底面がフィギュラティヴな彫刻からあらゆるものまで要請されてくる。カロの彫刻は一瞬のうちにみずからを開示するというが、それは見方を変えるとその一瞬は実は複数の瞬間の重ね合わせであり、作品自体も複数の基底面を想定しないと読解できない。ステラとカロの限界は、アイゼンマン問題と重なるものがある。
このことをポジティヴに延長すると、セラやスミッソン、理論的にはクラウスの考察につながってゆく。セラは、カロの作品が展示空間に溶接されて固定された断片であったのに対して、それを固定せずに置いたものにする、という違いだけで作品が発表されている。こうしたセラの手法は、カロの手法からリテラルな溶接・固定を除いたという理由だけで脱構築したと読まれた。
クラウス、マトリクスをどう考えるか、精神分析からヴィトゲンシュタインへ
 クラウスの議論は、実在の作品あるいは大文字の対象それ自体は常に不在であり、実際に現れるのはそれを代理する像や小文字の対象である、そのためミニマルの対象像の先送りする反復効果は重要である、絶えず交替して変化していく複数の想像された面の持続においてしか実在の作品はない、というもの。これはポストミニマルと言われるセラやスミッソンから読解されたもの。「主の寝室」では、実際の地/図の対立のなかで地が露呈するのではなく、図を図として成立させている図の交換可能性がいつのまにか地の交換可能性に置き換えられる、と議論される。「The im/pulse to see」(邦訳、『視覚論』所収)では、ピカソのデッサンがパラパラ漫画として読解され、図の交換可能性を与えるマトリクスが空間を保証しているとされた。図/地の二元論とそれを超えるとされたフェノメナルな純粋経験の背後には、ともにそれを条件付けているマトリクスの効果があるとしたことにクラウスの功績がある。
だが、クラウスの議論におけるマトリクスは、ラカン=リオタールのレヴェルで人間の思考を深層で規定しているマトリクスが考えられているとはいえ、これにはクラインの四元群に回収する精神分析帝国主義のような限界がある。またこのままでは、さまざまな地、さまざまなコンテクストが並立し、交替する状況をそのまま肯定している段階にとどまっており、そに関わる主観との関係について判断停止に陥っている。結果、彼女の意図からはずれて、小文字の対象やコンテクストの複数性を前提とする理論はPCを含んでいるため批判できないものとなってしまう。代わって作品判断の根拠におかれたオーセンティシティとは、ラカン派の言う「ウンハイムリッヒなもの」(表象空間に亀裂を走らせる、きわめて迫真的だがそれを名指すことのできないもの)へのアプローチから見出されているかもしれない。とはいえ、やはり精神分析からのみ考えることは限界をはらむだろう。こうした問題はヴィトゲンシュタイン的なヴィジョンからも考えられるのではないか。
グリンバーグ~クラウスの言うプロセス、世俗的与件ではなく…
 グリンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」では、アヴァンギャルドは結果ではなくプロセスとする。これはクラウスにまで通底している。こうしたプロセス志向は、グリンバーグからクラウスまでを含めて柳宗悦の民芸運動と同じ論理のもとにあり、回収できるのではないか。小文字の対象は単にレッサー・アートで、プロセスとはそれを支えた「もののあはれ」ではないか。晩年のグリンバーグが言う「渋い」(柳宗悦)は、美/醜の対立を止揚するもの、色の対立を超えるものという意味だった。この総合化がもたらす結果は、徹底的に世俗の生活へ没入することと同じことになる。グリンバーグやフリードにとっては世俗的総合こそが避けられないものとして考えられていた。そのため、家具や住宅の制作は過程にとどまるなら芸術である、とみなされた。まさにカロの作品には家具や台所用品になり損ねた部分があり、そこにフリードなどは複数のコンテクストの重なり合いを見る。この「なりそこね」こそがプロセスとして芸術になりうるという発想は、民芸の「ひねもの」(濱田庄司)と変わらない。事実、渡米した濱田のたらし込みは絵柄のうえではポロックのドリッピングと同じなのだ。
そのとき、他方で機能主義的な家具と作品を区別し、世俗を前提としない無趣味にとどまったジャッドが刺激的になる。この無趣味にとどまりながらも、予定調和的な単一性へと物象化された作品をいかにフェノミナルに現象化させるかが問われる。『Anywhere』でクラウスが言ったような、書かれたもの/ヴィジュアルなものの区別を垂直面/水平面の区別へと移行させ、それら二つを派生させた同じものへ、というのは退けたい。二つの別の秩序やセリーが共存する状態を想像することも要請することも退けたい。とりあえずはジャンルの違いを維持することに複数性の根拠を見出したい。そのあとたとえ観客が共存する場を見出そうともかまわない。

Session II: free discussion 1994.11.11 (pp.318-346)
フォーマリズム以降が問われうるアメリカ、趣味性と主観的な単独性に陥りかねないヨーロッパ
 モダニズムはアメリカに導入されることによって大きな変容を遂げた(言い換えるならば、この変容という切断を経て「モダニズム」になった)。戦後ヨーロッパにおいては、建築ドローイングや建築写真などネガティヴな領域において見出した共存しえないものの共存を建築では均質空間に帰結させてしまうような危うさ(ミース)があり、透明性もまた社会的なヴィジョンとして組み込まれていた概念だった。だがそれがアメリカに導入されたあとには、ロウによってイデオロギー抜きにフォーマリスティックな図式が抽出され、それをもとにニューヨーク・ファイヴたちによってヴァリエーションが展開された。また、社会的な機能主義はそのままに単純なモダニズムとしてアメリカでも実践される。アメリカではこの対立がいまなお続いている。一方ヨーロッパではコールハースのように社会的なプログラミングのみが重視され、個々の形態は問題視されない。ミースたちの建築に対する問いは、ロウのように現象学的に抽出されることもなく前批判的な趣味のレヴェルにとどめられたのではないか。
ロウの仏訳版『コラージュ・シティ』出版が1993年、グリンバーグの仏訳版『芸術と文化』出版が1988年、ポンピドゥー・センター近代美術館の『カイエ』のグリンバーグ特集号が1993年と、アメリカ美術理論のフランスへの紹介はまだ近年はじまったばかり。戦前にル・コルビュジエやミースらを形成し、彼らが提起した問題はヨーロッパにおいてはやりすごされていた。戦後は空間の体制に対する意識が弱く、ほとんど主観的な経験のみで制作に向かう。アンフォルメルへの抵抗もまた(当時の実存主義のせいかもしれないが)そうしたものだった。その典型は、ハンス・ホラインやボイス、キーファーなどに見られる、あたかも与件として単独性が作家主体に与えられているかのようなふるまいにある。ラウシェンバーグであれば、身体性からなにから吸収してシェーマを拡大させても、あくまでそれらはプログラムに記述可能であるとなる。だが、ボイスはそうではないように見せ、キーファーにいたっては「私」をめぐる関係性をそのまま物象化してしまい、あらかじめ与えられたかのような単独性を私に付与してしまう。磯崎新もある時期以降は空間をフェティッシュにしてしまっている。そう、たとえばフランスでは抽象絵画さえも趣味のよさや完成度で成立したのだ。そのため、メディウムを拡大させていく方向に向かわなかった。建築で類型学(typologie)に、プロトタイプに形態の根拠を求める方向に向かった。
こうした特徴は、ヨーロッパ社会が芸術家に与える職業的なポジションのためでもある。それは、(前批判的な水準にある)「批判」の身振りを芸術家に求めている。このアリバイのもとで、作家はいかに趣味よく形態的に仕上げるかということにのみ回収しているのではないか。クリスチャン・ボルツァンパルクやフランク・ロイド・ライト、ゲーリー、安藤忠雄のヨーロッパでの「趣味」的な受容はこれらコンテクストに由来する。
こうした単独性を気取るレトリックを牽制するためには、プログラム化して誰にでもできるようにするリテラルな戦略は批評として有効である。複数の重なりを発生させる、事後的に想起せざるをえないように現れる大文字の都市、大文字の建築、大文字の美術といったものはあるだろう。だが、それは手づかみで直接相手にすることはできないし、その大文字の建築と大文字の建築家が一致する必要もない。キーファーに関する問題と同様、作品を形成する主体や経験主体はあくまで抽象的に要請されるのであって、リテラルな主体には還元できない。だが、建築家の職業的なポジションの問題からリテラルな主体へと還元しようとし、リベスキンドのような単独性を自称する振る舞いが起きている。つまり、他の建築家との競合状態にある建築家は一つの大文字の建築家のポジションを奪い合い、結局PCを成立させるレトリックのもとで民主主義的な解決をとっている。そうした事態を凡庸化させていくためには批評は少なくとも形式主義である必要がある。

実在論=リアリズム/プログラムへの記述可能性を示すフォーマリズムの戦略
 プログラムと言っても、プログラム/モノ・形態といった対立は成り立たない。現在コンピュータについて複雑性が問題になるのは、プログラムが複製不可能になることによって物質と同じく一度消去されると再生できなくなってきたからだ。こうして、プログラム/物質という対比は無効になりつつある。物質のみに「いま、ここ」の知覚が関わるわけではなくなる。プログラムは単独的な美的対象にもなりうるだろう。
 コンテクストはふたたび検討されうる。コンテクスチュアリズムは伝統主義的に全体を決定するものではなく、そのデータは確率論的に限定されたかたちでしか集められない。コンテクストは複数のものとして考えられるが、それさえも確率的な判断のもとにさらされている。だが、現行のコンテクスチュアリズムは全体として町並みを確定することを前提にしてしまっている。そうではなく、コンテクストとしてしか、コンヴェンションとしてしか考えられないという事態なのだ。こう考えるとき、ロウ『コラージュ・シティ』が言うような、プログラムを模写しようとすると複数の別々のプログラムへと解体してしまうということに関する議論は、刺激的な読み直しを可能にする。
単独性を気取るレトリックを牽制するためには、リテラルな戦略、形式主義的な批評は必要である。とはいえ、形式主義・ノミナリズムはリアリズム(プラトニズム・概念実在論)とペアをなしている。数学者が言うように、形式化された学のもとでは週末はノミナリストだが普段はリアリストとして数学を考える。そのとき数学的対象はどこかに実在すると思って、形式的証明の以前に正否を判断している。美術で言うと、デュシャンとウォーホル以後は極度に形式主義的なゲームになってしまった。だがある種のリアリズムは必要である。そのリアリズムとは、良し悪しをの評価を共有する共同体によってのみ成立しているのではなく、それを超えた普遍的判断に根拠づけられているものでもあるのではないか。そのためとりあえず名人である必要がある。それなしで形式的操作から解体をほどこしてもどうしようもないものになるだけだ。となると、リアルなものをどう考えるかが重要である。
カニングハム、フォーサイス、リアルなもの
 三幕物は従来では名作/忘れかけられたもの/新作という組み合わせをとるが、カニングハムはその形式は踏襲しつつも三幕物ではなく確率論的な組み合わせを導入した。どこから次のダンスへと誰もわからなくなるような、つまりアーティキュレーション(分節化=接合)の様子が認知できないようなダンスになっている。小杉武久の音楽に比べても、ダンスはどこで盛り上がりなのかさえわからなくなる。これは、ライフ・フォームというコンピュータ・ソフトにパターンを組み込んで、妙な組み合わせの状態を多数発生させていることにもよる。これは絵画で言えば、サイ・トゥウォンブリーやロバート・ライマンの、全体的なプランの出現を可能なかぎり遅らせ、個々の断片が継起する状態のままにさせる効果に相当する。全体を統合する空間軸や時間軸に対する批判と解体をめざす作品群、これにはチュミも含む60年代の問題だ。岡崎は言う、私にとっては相変わらず刺激的に感じ、real/ possibleの意味で非常にrealに感じるのだと。
そこでカニングハムに比して他方、フォーサイスはリベスキンドと同様にあまりにわかりやすいイラストレーションによる図式化をしてしまっているのではないか。ただ、「最近はそこからカニングハム的な積極的な意味での退屈と弛緩に向かっていると思う」(浅田)。バッハをはじめとしてシェーンベルク、ブーレーズは対位法を作用していたのだが、対位法の基本アルゴリズムはx-x1/x-1/x(たとえば原型、逆行型、倒置型、逆倒置型)という単純なクラインの四元群。その単純さを克服するために、表面において複雑なセリーを施して精緻な構造を形成していた。だが、現在ではアルゴリズム自体をより複雑に設計できる状況が到来し、アルゴリズムもある種の単独性を獲得できるようになった。対位法にとらわれることなく、偶然のコインシデンスさえもジェネレートできるようにアルゴリズム(プログラム)を複雑化させること。そうしてコレオグラファーとして自分が必要とされなくなるときに、いかにして舞台から消え去るか。これがいまの課題なのだ。
自称がもたらす記号論的な一つの帰結ではなく、主体を複数に分裂させる複数の言語ゲームへ
 コールハースはプログラム決定論を唱えながらも妥協的に形態へ配慮している。そうすると、フラーの試みた切断はむしろコールハースよりも過激なのではないか。フラーは、形態をつくらせても異常にうまいサーリネンの対極に位置し、建築にとっての外的環境や形態をまったく無視する超機能主義を採用している。建築を成立させる条件にインフラストラクチャーを介在させることなく、先験的な空間を前提にすることなく住宅を自立させようとする。しかももはや自然景観との適合性や場所との整合性すらない。これは、いわばホームレス住居でもあり、ケージたちブラック・マウンテン・カレッジの系譜とも重なる。
経験の主体を自称する者が自分をマイノリティとする。しかし、その自称の定義は、記号論的な体制にあっては他者にどう見られるかということに根拠づけられてしまう(ex.「ドイツ人はドイツ人と見られることによってドイツ人である」)。女性、民族に関しても同様の手続きのもとで主体の名前が与えられる。ラウシェンバーグ~フルクサスやボイス(主観的経験の自称)がそうした図式の中にあったとすると、その圏外に出たと言える例外はフラーなど数少ない。
 カルパッチオ・ベリーニ・ティツィアーノ~プッサンなどヴェネツィア派には可能性が見出せる。ティツィアーノの場合。最初に画面全体の構造を決定しないで描いていく、つまり適当に色彩を並べて画面を複雑な状態にしていく。それとは別に人物の物語をつくり、その複数のセリーをもう一度画面のなかで重ね合わせる。この制作手法はヴァザーリから偶然的すぎると批判されたが、これによって前景/後景、人物/風景、明暗、奥行、色相といった一本に束ねられない諸秩序(複数の言語ゲーム)が分散・溶融しているような、見尽くせない魅力が成立している。これに比べると、ロスコの絵は図式的に単純化されている。プッサンの場合。一義的には前景/後景や図/地と文節しきれない複数の場面の重ね合わせから成り立っている。ダ・ヴィンチやカラヴァッジオよりもプッサンやティツィアーノの作品が見た記憶から模写することが困難なのは、手持ちのシェーマで解析しにくいために想起の対象として複雑だから。ここでは複数のシェーマが階層性なく重ね合わされている。そのためこの絵画は「読まれ得る」(フリード)、つまりシンタクスがあることがわかり、「読むに値する」のだ。
ヴェネツィア派を導入すること、それは歴史の引用なのかモダンなのかの決定不能性のもとでなされなければならない。ポストモダン・ヒストリズムではリテラルにパラディオのように見えるものを作ってしまった。そうではなく、ル・コルビュジエがパラディオを変形させたような(そしてロウがそう分析したような)変形過程を必要とする。古典主義ではなく、古典主義に対してロウが言うマニエリスム、アイゼンマンが重視した変形を施すこと。
濃度、構造的因果性のもとで美学的判断を考える
モダニズムは一方で「いま」の多層性を明らかにしながらも、他方でアポカリプス的な時間性に依拠したまま終わりのなかで「いま、ここ、私」を特権的に実体化してしまった。だが、歴史的に見ても終わりは来なかった、あるいは終わりの切迫感は成り立たなくなった。そのため、非常に弛緩した状態になっている。この弛緩はフォーサイス的な積極性から考えると悪くない。むしろ中途半端なモラルや目的論的判断力に対して抵抗したい。
一枚の作品があるなかに、全体の空間、これから発生してくるだろう空間が確率的に見える。そこでいま現象的に知覚されるものは確率的な全体性でしかない。トゥウォンブリーやケージは断片的には解体したのかもしれないがこうした確率性を欠いている。断片とは、確率的なかたちで相互に矛盾する複数の全体性を喚起、ジェネレートするものであって、そのためにはパラディグムの広さや矛盾した重ね合わせが必要になる。このようにパラディグムがない場合には、シンタクスが物象化されざるをえず、オブジェになってしまう。これでは、対象は濃度から測られず、実体化されてしまう。美術作品の質の判断はあくまで濃度に由来するもの。
構造を濃度の問題としてとらえてみよう。クラウスは構造をいわば映画的に時間軸でとらえてしまったために、一望できるマトリクスで循環するクラインの四元群のうちどれを選ぶのかは主観による、としてしまった。そのため「にもかかわらずこれを選んだ理由」について言えなくなる。濃度の配置としての構造とは、確率をもって分布する異なる事物(雨/曇り/晴れ)の配置であり、これはとりわけ美学的判断の対象である構造にふさわしい。そして、そこに構造的布置がそれ自体を決定する(構造論的決定)ことで決定は下される。つまり、形態から構造を見るのが美的判断であって、構造のなかのヴァリアントとして形態を見るのとは異なる。知覚は知覚自体が構造なのであり、知覚の外に構造があるわけでも対になっているわけでもない。このとき、構造主義と実存主義は対立するものではなくなるだろう。
また、いわゆるインタラクティヴな構造と呼ばれるものは偽の問いである。現在のインタラクティヴとは、計画主体(作家)は全能の神で、参加者には変換可能性がありますよ、それで戯れなさい、と言っているのと同じことだ。大文字の建築を目指すならば、まだ不十分だ。
作家と一致することなく作品が生き残り、問われる役割があるのならば、
 芸術家や建築家が職業的に担っていた部分は現在でも必要だ。社会には、誰が主体かわからない解決不可能な問題、計画では決定できない事後的に発生してくる問題がある。都市計画以降に発生してくる問題は、現在ではフランクフルト学派のような合意や調停によるレギュレーションの論理によって処理されている。しかし、調停可能/不可能を決定不能なままに維持するシステムを想定するべきだ。これはプログラムとして記述できる問題である。あらゆる事物が不可避的に何らかの計画を表象してしまうために、事後的な複数の都市計画のあいだにはコンフリクトが発生する。この諸計画のコンフリクトがあらゆる事物のあいだでのコンフリクトとされているものだ。このことが環境問題や都市計画では問題になっているのではないか。このように、確率論的な立場からコンテクスチュアズムの立場に立つという役割が芸術には問われる。
 確率論的な決定不能性。それは、実際に10回体験して見るたびにちがって見えるのではなく、見る前から確率的に決定不能なのだ。可能世界では降水確率30%の予報のもとでは雨の振った三つの世界と七つの世界は分岐しているが、現実にはこの一つの世界のなかで確率的な次元が出現する。ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』では、雨が振っているけれど私は信じないという事態に言及される。この問題は、可能世界の束に還元しても実存的な主体的経験に還元しても失われてしまう。「いま、ここ」は、こうした複数の状態の確率論的な重ねあわせから考えられなければならない。
重ね合わせがもたらすサブライム

 リオタールはニューマン「崇高はいま」を指してこう言った、世界がいまここに生起しているということの驚きこそがサブライムであると。だがその言葉は、決してこない終末を待ち続けるユダヤ的期待をもっているニューマンにではなく、さまざまな状態を重ね合わせようとするカニングハムやフォーサイスにこそふさわしい。この状態は、いわば「「いま、ここ」がいろんな状態が多様な確率変数をもってボヤーッと重なり合っているような形」「退屈」(浅田)、「どっちつかずの訳のわからない状態」「中性的な時間の広がり。どっちつかずの濃度だけがある状態」(岡崎)なのだ。