2015年7月4日土曜日

レジュメ  岡崎乾二郎・浅田彰・松浦寿夫・田中純・丸山洋志「セミナー モダニズムの再検討」

11年前に書いたレジュメ(にしては明晰ではないように思うが面倒なので手直ししない)を持ってたので、Kindle化に合わせて公開。多くの人は座談会を読んでも話のつながりが把握できなくなってしまうのではないかと思って作ったような記憶がある。レジュメというよりは「縮約形」か。

レジュメ 
岡崎乾二郎・浅田彰・松浦寿夫・田中純・丸山洋志「セミナー モダニズムの再検討」
(『批評空間臨時増刊号 モダニズムのハード・コア:現代美術批評の地平』太田出版、1995
 


Session I: Presentation 1994.4.29 (pp.304-317)
グリンバーグ、ミニマリズム、フリード=ロウ、透明性の遅延や作品を成立させる主体の事後的生成における差延
 グリンバーグの基本的枠組。単一性unity/視覚性opticality/実在性realityが目指される。図と地の対立、あるいは対立させる形態が超克の対象とされ、観客・公衆の投影によって現れる形態を排除したときにはじめて絵画は純粋なオプティカリティに到達し、芸術として自律しうるとした。グリンバーグによると、三つの概念は実在の作品のなかで一致するものとして、つまり三位一体を構成するものとして考えられた。
 ミニマリズムの問題設定は二つ。①図と地が対立したままに図と図の組み合わせから成立する作品を批判するグリンバーグを受けて、作品全体を図/地を対立させない単体として現すこと。②視覚的なフィールドは見る距離から制約され、遠くからではただの四角いフレームをもつ形態となってしまう事態に対して、近距離に可能だった内部を放棄することで外形の四角い形態こそが作品である、とした。単に三次元の物体があるのなら距離による制約はなくなり、そもそも彫刻/絵画というジャンル画定に基づいていた問題はなくなる。壁に掛ければ絵画になってしまう、という絵画を成立させる制度的なシステムをリテラルに利用し、遠距離に物体を置いて絵画/彫刻を止揚した。
ここでフリードが登場する。ミニマリズムは実在を実在として成立させている公衆に依存している、実在性は、ア・プリオリには与えられない、と言う。さらに、公衆として組織された観客に対して、作品が作品として成立するのと同時に成立する主体が事後的に生成するのだ。カロの途中で中座したような形態、「なりそこね」た作品は「読むに値する」という。だが、フリードの言う主体の生成では、現象学的な意識の瞬間性に限定されており、時間的な持続が排除されている(だが、そう評価するカロの作品も無時間・無媒介に成立するのではなく、あくまでその一瞬は実は複数の瞬間の重ね合わせであり、作品自体も複数の基底面を想定しないと読解できない)。フリードは瞬間性と言うが、シンタクスを、したがって言語的な読解の問題を導入しているので、本来なら差異さらに差延に関する検討が必要である。この問題はクラウスに持ち越され、それと同時に精神分析へと回収されるようになってゆく。
 ロウの透明性に関するフェノミナル/リテラル。フェノメナルな透明性は、本来共存しえないもの同時に同じ場所を占めているように見えることから事後的に要請される効果。リテラルな透明性は、あらかじめ透明な物質が実在するという立場。この立場から、ガラスをその上に何でも重ね合わせることができる実在的な基底面とみなした。カラー・フィールド・ペインティングもまた、重ね合わせやコラージュを可能にする、実体化された絵画の空白のフィールドだった。一方あくまでフェノメナルな効果にこだわるロウは、ル・コルビュジエの作品を透明性が遅延し続けていって最終的にどこにも提示されない状態をマニエリスティックな視線の撹乱だと評価した。このように透明性を遅延されるものとして考えるとき、現象学的還元によるリテラルなものへの批判とフェノメナルな意識経験への志向が陥る現前の形而上学から逃れて、複数の基底面や想像=知覚された複数の地の絶え間ない交替と変化について考えることができるのではないか。
ロウの最も重要な論点は、実在を複数の想像された面の矛盾として事後的に要請されるものだとしているように見えるところにある。同様に、グリンバーグの言う図/地は通俗的には交換可能なもの/基底面・交換不可能と理解されているが(すると単一性を保証するもの、たとえば均質空間があるかのようになる)、そうではない。知覚は図と地に分離できず、地こそが交換可能なもので、実在してはいない。複数の・交換可能な基底面や地を考える必要がある。
ロウ、アイゼンマン、コールハース/フリード、ジャッド、カロ、セラ:複数の基底面と実在性の扱い
 ロウの言う「コラージュ」は、それぞれ全然違う基底面の重なり合いとして理解できるところがある。60年代以降、建築や美術でもサイトが単一の場所として前提できないというかたちで問題になり、場所と場所の対立が考えられはじめる。ヴェンチューリもそうだ。アイゼンマンは、一見形態を重ね合わせているように見えても、実際はその作業の前提として与件を捏造し、実際の知覚に複雑さを与えようとしているのではないか。その与件とは、一つの都市のなかに複数の軸線があり、それが絶対一致しないというもの。ロウを文字通り逆様に導入すると、こうなるのではないか。美術でも同様に、本来あるかはわからないが人工的にいくつかの時代の層をつくって、それらの間の矛盾を利用している。
 ただし、単一性という近代主義を乗り越えようとしてフェノメナルな透明性を捏造するために、複数の面を実在するかのようにしてしまう。その結果、実在する透明性、近代的な実在する均質空間へと回帰してしまうのではないか。アイゼンマンに比べると、あたかも地の交換可能性をとらえていることで優位にあったように見えたコールハースは、実際は結果的に実在する透明性に戻ってしまっているのではないか。最後にグリッドをもってきて、グリッドがあらゆるものの両立しない諸部分をディスジャンクティヴなままに並列させるとする。ならば、これはグリッド状の均質空間は近代的な実在するリテラルな透明性となっているようだ。個々のシェイプが問題ではなく、社会的機能から決定されるプログラムこそが問題なら、オスマンのパリ改造計画にみられる近代主義と同じだ。
ロウのフェノメナル/リテラルの対立。リテラルなものをリテラルに示すことに徹底したのがジャッド。絵画と彫刻の区別もない、いや美術と建築の区別もない、ならばオブジェクトがあるだけなのか。いや、ジャッドを可能性の中心として考えるなら、彼は基底面と呼ばれるものの呈示さえも回避したかったのではないか。基底面も何もない、ただ感覚与件として目の前に与えられたオブジェがある。オブジェがないと言われてもかまわない。はじめから予定調和的な単一性へと作品を物象化している。作品に対するあらゆる属性付与(きれい、バランスがとれている)は観客に依存しているのだから、勝手に見ればよい、と。これはグリンバーグ以上に徹底したモダニズムの(負の、かもしれないが)極限なのだ。
また、ジャッドはフリードからはジャンルの枠を超えてしまい、それによってシアトリカルな持続を導入していると批判される。だが、世俗に直面せざるをえない家具や建築の制作ではぎりぎりまで追い詰められており、それはあらまじめ世俗を前提にしているようなグリンバーグやフリードとはちがって無趣味なままなのだ。さらに、ジャッドがプロセスを前衛の条件として想定しないことには可能性が見出すことができる。
ステラの場合。最初のブラック・ストライプ・シリーズではグリンバーグ的な還元主義を突き詰めてほとんどジャッド的な総合を達成しようとしていた。だがその後は、フリードの言う複雑なものの生成によって作品を現象化させようと試みるが、その操作の設定がリテラルなものにとどまっていたため、ゴーキーの絵画やチェンバレンの彫刻を不器用にしたものになってしまった。フリードがモデルとしていた抽象表現主義とは、相互に矛盾するコンテクストが圧縮されて重ね合わされ、ずれだけが呈示されるという理念があった。それは、チェンバレンやゴーキーと同じ問題である。
 カロの場合。一方、フリードが避けられない世俗的与件を還元するなかで成立したものとして評価するカロの作品では、あからさまに断片的なものが呈示されている。最初見るときにはずれしか現れないが、そのずれを解釈しようとすると複数の基底面がフィギュラティヴな彫刻からあらゆるものまで要請されてくる。カロの彫刻は一瞬のうちにみずからを開示するというが、それは見方を変えるとその一瞬は実は複数の瞬間の重ね合わせであり、作品自体も複数の基底面を想定しないと読解できない。ステラとカロの限界は、アイゼンマン問題と重なるものがある。
このことをポジティヴに延長すると、セラやスミッソン、理論的にはクラウスの考察につながってゆく。セラは、カロの作品が展示空間に溶接されて固定された断片であったのに対して、それを固定せずに置いたものにする、という違いだけで作品が発表されている。こうしたセラの手法は、カロの手法からリテラルな溶接・固定を除いたという理由だけで脱構築したと読まれた。
クラウス、マトリクスをどう考えるか、精神分析からヴィトゲンシュタインへ
 クラウスの議論は、実在の作品あるいは大文字の対象それ自体は常に不在であり、実際に現れるのはそれを代理する像や小文字の対象である、そのためミニマルの対象像の先送りする反復効果は重要である、絶えず交替して変化していく複数の想像された面の持続においてしか実在の作品はない、というもの。これはポストミニマルと言われるセラやスミッソンから読解されたもの。「主の寝室」では、実際の地/図の対立のなかで地が露呈するのではなく、図を図として成立させている図の交換可能性がいつのまにか地の交換可能性に置き換えられる、と議論される。「The im/pulse to see」(邦訳、『視覚論』所収)では、ピカソのデッサンがパラパラ漫画として読解され、図の交換可能性を与えるマトリクスが空間を保証しているとされた。図/地の二元論とそれを超えるとされたフェノメナルな純粋経験の背後には、ともにそれを条件付けているマトリクスの効果があるとしたことにクラウスの功績がある。
だが、クラウスの議論におけるマトリクスは、ラカン=リオタールのレヴェルで人間の思考を深層で規定しているマトリクスが考えられているとはいえ、これにはクラインの四元群に回収する精神分析帝国主義のような限界がある。またこのままでは、さまざまな地、さまざまなコンテクストが並立し、交替する状況をそのまま肯定している段階にとどまっており、そに関わる主観との関係について判断停止に陥っている。結果、彼女の意図からはずれて、小文字の対象やコンテクストの複数性を前提とする理論はPCを含んでいるため批判できないものとなってしまう。代わって作品判断の根拠におかれたオーセンティシティとは、ラカン派の言う「ウンハイムリッヒなもの」(表象空間に亀裂を走らせる、きわめて迫真的だがそれを名指すことのできないもの)へのアプローチから見出されているかもしれない。とはいえ、やはり精神分析からのみ考えることは限界をはらむだろう。こうした問題はヴィトゲンシュタイン的なヴィジョンからも考えられるのではないか。
グリンバーグ~クラウスの言うプロセス、世俗的与件ではなく…
 グリンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」では、アヴァンギャルドは結果ではなくプロセスとする。これはクラウスにまで通底している。こうしたプロセス志向は、グリンバーグからクラウスまでを含めて柳宗悦の民芸運動と同じ論理のもとにあり、回収できるのではないか。小文字の対象は単にレッサー・アートで、プロセスとはそれを支えた「もののあはれ」ではないか。晩年のグリンバーグが言う「渋い」(柳宗悦)は、美/醜の対立を止揚するもの、色の対立を超えるものという意味だった。この総合化がもたらす結果は、徹底的に世俗の生活へ没入することと同じことになる。グリンバーグやフリードにとっては世俗的総合こそが避けられないものとして考えられていた。そのため、家具や住宅の制作は過程にとどまるなら芸術である、とみなされた。まさにカロの作品には家具や台所用品になり損ねた部分があり、そこにフリードなどは複数のコンテクストの重なり合いを見る。この「なりそこね」こそがプロセスとして芸術になりうるという発想は、民芸の「ひねもの」(濱田庄司)と変わらない。事実、渡米した濱田のたらし込みは絵柄のうえではポロックのドリッピングと同じなのだ。
そのとき、他方で機能主義的な家具と作品を区別し、世俗を前提としない無趣味にとどまったジャッドが刺激的になる。この無趣味にとどまりながらも、予定調和的な単一性へと物象化された作品をいかにフェノミナルに現象化させるかが問われる。『Anywhere』でクラウスが言ったような、書かれたもの/ヴィジュアルなものの区別を垂直面/水平面の区別へと移行させ、それら二つを派生させた同じものへ、というのは退けたい。二つの別の秩序やセリーが共存する状態を想像することも要請することも退けたい。とりあえずはジャンルの違いを維持することに複数性の根拠を見出したい。そのあとたとえ観客が共存する場を見出そうともかまわない。

Session II: free discussion 1994.11.11 (pp.318-346)
フォーマリズム以降が問われうるアメリカ、趣味性と主観的な単独性に陥りかねないヨーロッパ
 モダニズムはアメリカに導入されることによって大きな変容を遂げた(言い換えるならば、この変容という切断を経て「モダニズム」になった)。戦後ヨーロッパにおいては、建築ドローイングや建築写真などネガティヴな領域において見出した共存しえないものの共存を建築では均質空間に帰結させてしまうような危うさ(ミース)があり、透明性もまた社会的なヴィジョンとして組み込まれていた概念だった。だがそれがアメリカに導入されたあとには、ロウによってイデオロギー抜きにフォーマリスティックな図式が抽出され、それをもとにニューヨーク・ファイヴたちによってヴァリエーションが展開された。また、社会的な機能主義はそのままに単純なモダニズムとしてアメリカでも実践される。アメリカではこの対立がいまなお続いている。一方ヨーロッパではコールハースのように社会的なプログラミングのみが重視され、個々の形態は問題視されない。ミースたちの建築に対する問いは、ロウのように現象学的に抽出されることもなく前批判的な趣味のレヴェルにとどめられたのではないか。
ロウの仏訳版『コラージュ・シティ』出版が1993年、グリンバーグの仏訳版『芸術と文化』出版が1988年、ポンピドゥー・センター近代美術館の『カイエ』のグリンバーグ特集号が1993年と、アメリカ美術理論のフランスへの紹介はまだ近年はじまったばかり。戦前にル・コルビュジエやミースらを形成し、彼らが提起した問題はヨーロッパにおいてはやりすごされていた。戦後は空間の体制に対する意識が弱く、ほとんど主観的な経験のみで制作に向かう。アンフォルメルへの抵抗もまた(当時の実存主義のせいかもしれないが)そうしたものだった。その典型は、ハンス・ホラインやボイス、キーファーなどに見られる、あたかも与件として単独性が作家主体に与えられているかのようなふるまいにある。ラウシェンバーグであれば、身体性からなにから吸収してシェーマを拡大させても、あくまでそれらはプログラムに記述可能であるとなる。だが、ボイスはそうではないように見せ、キーファーにいたっては「私」をめぐる関係性をそのまま物象化してしまい、あらかじめ与えられたかのような単独性を私に付与してしまう。磯崎新もある時期以降は空間をフェティッシュにしてしまっている。そう、たとえばフランスでは抽象絵画さえも趣味のよさや完成度で成立したのだ。そのため、メディウムを拡大させていく方向に向かわなかった。建築で類型学(typologie)に、プロトタイプに形態の根拠を求める方向に向かった。
こうした特徴は、ヨーロッパ社会が芸術家に与える職業的なポジションのためでもある。それは、(前批判的な水準にある)「批判」の身振りを芸術家に求めている。このアリバイのもとで、作家はいかに趣味よく形態的に仕上げるかということにのみ回収しているのではないか。クリスチャン・ボルツァンパルクやフランク・ロイド・ライト、ゲーリー、安藤忠雄のヨーロッパでの「趣味」的な受容はこれらコンテクストに由来する。
こうした単独性を気取るレトリックを牽制するためには、プログラム化して誰にでもできるようにするリテラルな戦略は批評として有効である。複数の重なりを発生させる、事後的に想起せざるをえないように現れる大文字の都市、大文字の建築、大文字の美術といったものはあるだろう。だが、それは手づかみで直接相手にすることはできないし、その大文字の建築と大文字の建築家が一致する必要もない。キーファーに関する問題と同様、作品を形成する主体や経験主体はあくまで抽象的に要請されるのであって、リテラルな主体には還元できない。だが、建築家の職業的なポジションの問題からリテラルな主体へと還元しようとし、リベスキンドのような単独性を自称する振る舞いが起きている。つまり、他の建築家との競合状態にある建築家は一つの大文字の建築家のポジションを奪い合い、結局PCを成立させるレトリックのもとで民主主義的な解決をとっている。そうした事態を凡庸化させていくためには批評は少なくとも形式主義である必要がある。

実在論=リアリズム/プログラムへの記述可能性を示すフォーマリズムの戦略
 プログラムと言っても、プログラム/モノ・形態といった対立は成り立たない。現在コンピュータについて複雑性が問題になるのは、プログラムが複製不可能になることによって物質と同じく一度消去されると再生できなくなってきたからだ。こうして、プログラム/物質という対比は無効になりつつある。物質のみに「いま、ここ」の知覚が関わるわけではなくなる。プログラムは単独的な美的対象にもなりうるだろう。
 コンテクストはふたたび検討されうる。コンテクスチュアリズムは伝統主義的に全体を決定するものではなく、そのデータは確率論的に限定されたかたちでしか集められない。コンテクストは複数のものとして考えられるが、それさえも確率的な判断のもとにさらされている。だが、現行のコンテクスチュアリズムは全体として町並みを確定することを前提にしてしまっている。そうではなく、コンテクストとしてしか、コンヴェンションとしてしか考えられないという事態なのだ。こう考えるとき、ロウ『コラージュ・シティ』が言うような、プログラムを模写しようとすると複数の別々のプログラムへと解体してしまうということに関する議論は、刺激的な読み直しを可能にする。
単独性を気取るレトリックを牽制するためには、リテラルな戦略、形式主義的な批評は必要である。とはいえ、形式主義・ノミナリズムはリアリズム(プラトニズム・概念実在論)とペアをなしている。数学者が言うように、形式化された学のもとでは週末はノミナリストだが普段はリアリストとして数学を考える。そのとき数学的対象はどこかに実在すると思って、形式的証明の以前に正否を判断している。美術で言うと、デュシャンとウォーホル以後は極度に形式主義的なゲームになってしまった。だがある種のリアリズムは必要である。そのリアリズムとは、良し悪しをの評価を共有する共同体によってのみ成立しているのではなく、それを超えた普遍的判断に根拠づけられているものでもあるのではないか。そのためとりあえず名人である必要がある。それなしで形式的操作から解体をほどこしてもどうしようもないものになるだけだ。となると、リアルなものをどう考えるかが重要である。
カニングハム、フォーサイス、リアルなもの
 三幕物は従来では名作/忘れかけられたもの/新作という組み合わせをとるが、カニングハムはその形式は踏襲しつつも三幕物ではなく確率論的な組み合わせを導入した。どこから次のダンスへと誰もわからなくなるような、つまりアーティキュレーション(分節化=接合)の様子が認知できないようなダンスになっている。小杉武久の音楽に比べても、ダンスはどこで盛り上がりなのかさえわからなくなる。これは、ライフ・フォームというコンピュータ・ソフトにパターンを組み込んで、妙な組み合わせの状態を多数発生させていることにもよる。これは絵画で言えば、サイ・トゥウォンブリーやロバート・ライマンの、全体的なプランの出現を可能なかぎり遅らせ、個々の断片が継起する状態のままにさせる効果に相当する。全体を統合する空間軸や時間軸に対する批判と解体をめざす作品群、これにはチュミも含む60年代の問題だ。岡崎は言う、私にとっては相変わらず刺激的に感じ、real/ possibleの意味で非常にrealに感じるのだと。
そこでカニングハムに比して他方、フォーサイスはリベスキンドと同様にあまりにわかりやすいイラストレーションによる図式化をしてしまっているのではないか。ただ、「最近はそこからカニングハム的な積極的な意味での退屈と弛緩に向かっていると思う」(浅田)。バッハをはじめとしてシェーンベルク、ブーレーズは対位法を作用していたのだが、対位法の基本アルゴリズムはx-x1/x-1/x(たとえば原型、逆行型、倒置型、逆倒置型)という単純なクラインの四元群。その単純さを克服するために、表面において複雑なセリーを施して精緻な構造を形成していた。だが、現在ではアルゴリズム自体をより複雑に設計できる状況が到来し、アルゴリズムもある種の単独性を獲得できるようになった。対位法にとらわれることなく、偶然のコインシデンスさえもジェネレートできるようにアルゴリズム(プログラム)を複雑化させること。そうしてコレオグラファーとして自分が必要とされなくなるときに、いかにして舞台から消え去るか。これがいまの課題なのだ。
自称がもたらす記号論的な一つの帰結ではなく、主体を複数に分裂させる複数の言語ゲームへ
 コールハースはプログラム決定論を唱えながらも妥協的に形態へ配慮している。そうすると、フラーの試みた切断はむしろコールハースよりも過激なのではないか。フラーは、形態をつくらせても異常にうまいサーリネンの対極に位置し、建築にとっての外的環境や形態をまったく無視する超機能主義を採用している。建築を成立させる条件にインフラストラクチャーを介在させることなく、先験的な空間を前提にすることなく住宅を自立させようとする。しかももはや自然景観との適合性や場所との整合性すらない。これは、いわばホームレス住居でもあり、ケージたちブラック・マウンテン・カレッジの系譜とも重なる。
経験の主体を自称する者が自分をマイノリティとする。しかし、その自称の定義は、記号論的な体制にあっては他者にどう見られるかということに根拠づけられてしまう(ex.「ドイツ人はドイツ人と見られることによってドイツ人である」)。女性、民族に関しても同様の手続きのもとで主体の名前が与えられる。ラウシェンバーグ~フルクサスやボイス(主観的経験の自称)がそうした図式の中にあったとすると、その圏外に出たと言える例外はフラーなど数少ない。
 カルパッチオ・ベリーニ・ティツィアーノ~プッサンなどヴェネツィア派には可能性が見出せる。ティツィアーノの場合。最初に画面全体の構造を決定しないで描いていく、つまり適当に色彩を並べて画面を複雑な状態にしていく。それとは別に人物の物語をつくり、その複数のセリーをもう一度画面のなかで重ね合わせる。この制作手法はヴァザーリから偶然的すぎると批判されたが、これによって前景/後景、人物/風景、明暗、奥行、色相といった一本に束ねられない諸秩序(複数の言語ゲーム)が分散・溶融しているような、見尽くせない魅力が成立している。これに比べると、ロスコの絵は図式的に単純化されている。プッサンの場合。一義的には前景/後景や図/地と文節しきれない複数の場面の重ね合わせから成り立っている。ダ・ヴィンチやカラヴァッジオよりもプッサンやティツィアーノの作品が見た記憶から模写することが困難なのは、手持ちのシェーマで解析しにくいために想起の対象として複雑だから。ここでは複数のシェーマが階層性なく重ね合わされている。そのためこの絵画は「読まれ得る」(フリード)、つまりシンタクスがあることがわかり、「読むに値する」のだ。
ヴェネツィア派を導入すること、それは歴史の引用なのかモダンなのかの決定不能性のもとでなされなければならない。ポストモダン・ヒストリズムではリテラルにパラディオのように見えるものを作ってしまった。そうではなく、ル・コルビュジエがパラディオを変形させたような(そしてロウがそう分析したような)変形過程を必要とする。古典主義ではなく、古典主義に対してロウが言うマニエリスム、アイゼンマンが重視した変形を施すこと。
濃度、構造的因果性のもとで美学的判断を考える
モダニズムは一方で「いま」の多層性を明らかにしながらも、他方でアポカリプス的な時間性に依拠したまま終わりのなかで「いま、ここ、私」を特権的に実体化してしまった。だが、歴史的に見ても終わりは来なかった、あるいは終わりの切迫感は成り立たなくなった。そのため、非常に弛緩した状態になっている。この弛緩はフォーサイス的な積極性から考えると悪くない。むしろ中途半端なモラルや目的論的判断力に対して抵抗したい。
一枚の作品があるなかに、全体の空間、これから発生してくるだろう空間が確率的に見える。そこでいま現象的に知覚されるものは確率的な全体性でしかない。トゥウォンブリーやケージは断片的には解体したのかもしれないがこうした確率性を欠いている。断片とは、確率的なかたちで相互に矛盾する複数の全体性を喚起、ジェネレートするものであって、そのためにはパラディグムの広さや矛盾した重ね合わせが必要になる。このようにパラディグムがない場合には、シンタクスが物象化されざるをえず、オブジェになってしまう。これでは、対象は濃度から測られず、実体化されてしまう。美術作品の質の判断はあくまで濃度に由来するもの。
構造を濃度の問題としてとらえてみよう。クラウスは構造をいわば映画的に時間軸でとらえてしまったために、一望できるマトリクスで循環するクラインの四元群のうちどれを選ぶのかは主観による、としてしまった。そのため「にもかかわらずこれを選んだ理由」について言えなくなる。濃度の配置としての構造とは、確率をもって分布する異なる事物(雨/曇り/晴れ)の配置であり、これはとりわけ美学的判断の対象である構造にふさわしい。そして、そこに構造的布置がそれ自体を決定する(構造論的決定)ことで決定は下される。つまり、形態から構造を見るのが美的判断であって、構造のなかのヴァリアントとして形態を見るのとは異なる。知覚は知覚自体が構造なのであり、知覚の外に構造があるわけでも対になっているわけでもない。このとき、構造主義と実存主義は対立するものではなくなるだろう。
また、いわゆるインタラクティヴな構造と呼ばれるものは偽の問いである。現在のインタラクティヴとは、計画主体(作家)は全能の神で、参加者には変換可能性がありますよ、それで戯れなさい、と言っているのと同じことだ。大文字の建築を目指すならば、まだ不十分だ。
作家と一致することなく作品が生き残り、問われる役割があるのならば、
 芸術家や建築家が職業的に担っていた部分は現在でも必要だ。社会には、誰が主体かわからない解決不可能な問題、計画では決定できない事後的に発生してくる問題がある。都市計画以降に発生してくる問題は、現在ではフランクフルト学派のような合意や調停によるレギュレーションの論理によって処理されている。しかし、調停可能/不可能を決定不能なままに維持するシステムを想定するべきだ。これはプログラムとして記述できる問題である。あらゆる事物が不可避的に何らかの計画を表象してしまうために、事後的な複数の都市計画のあいだにはコンフリクトが発生する。この諸計画のコンフリクトがあらゆる事物のあいだでのコンフリクトとされているものだ。このことが環境問題や都市計画では問題になっているのではないか。このように、確率論的な立場からコンテクスチュアズムの立場に立つという役割が芸術には問われる。
 確率論的な決定不能性。それは、実際に10回体験して見るたびにちがって見えるのではなく、見る前から確率的に決定不能なのだ。可能世界では降水確率30%の予報のもとでは雨の振った三つの世界と七つの世界は分岐しているが、現実にはこの一つの世界のなかで確率的な次元が出現する。ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』では、雨が振っているけれど私は信じないという事態に言及される。この問題は、可能世界の束に還元しても実存的な主体的経験に還元しても失われてしまう。「いま、ここ」は、こうした複数の状態の確率論的な重ねあわせから考えられなければならない。
重ね合わせがもたらすサブライム

 リオタールはニューマン「崇高はいま」を指してこう言った、世界がいまここに生起しているということの驚きこそがサブライムであると。だがその言葉は、決してこない終末を待ち続けるユダヤ的期待をもっているニューマンにではなく、さまざまな状態を重ね合わせようとするカニングハムやフォーサイスにこそふさわしい。この状態は、いわば「「いま、ここ」がいろんな状態が多様な確率変数をもってボヤーッと重なり合っているような形」「退屈」(浅田)、「どっちつかずの訳のわからない状態」「中性的な時間の広がり。どっちつかずの濃度だけがある状態」(岡崎)なのだ。

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